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【週刊・読書北海道メール版】 復刊第53号(通巻184号) 2000/01/11発行
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=====【今週の目次】=========================================================
〔Colum:本と批評〕
1)月刊漫画時評9(阿部 幸弘)
藤末さくら『3Dマテリアル』(宝島社 667円)
〔News:本の情報〕
2)新聞書評インデックス−1999年12月26日〜2000年1月9日掲載分
3)今週のベストセラー−札幌市中央区編
〔Colum:北海道の本と文化〕
4)ヤイユーカラの森 読書通信9(計良 光範)
河野本道著『「アイヌ」−その再認識』(北海道出版企画センター 3800円)
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〔Colum:本と批評〕
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●月刊漫画時評9(阿部 幸弘)
恋愛マンガは<恋愛という制度>を内側から食い破れるか?
藤末さくら『3Dマテリアル』(宝島社 667円)
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◆典型的恋愛マンガとは微妙な一線◆
藤末さくらの『3Dマテリアル』(宝島社 667円)の単行本の帯には、「三角関係
の切なさ満載のドラマチック・ラブ」と書いてある。はたして“切なさ”という形容
詞で物語全体をくくりきれるものかどうか、疑問がないではないが、確かにある種の
三角関係を描いた作品には違いない。このマンガを読んで考えたことを、今回は徒然
につづってみたい。
はじめて読んだ時の印象は、正直、「なんてまとまりの悪い作品だろう」というも
のだった。だが、そのまとまり悪さが心に残って、時々反芻するようになってしまっ
たから不思議だ。昔からよくある純愛系三角関係モノといえば、例えば筆者なら“男
二人が女一人に惚れて、しかも三人とも親友なので、互いに信頼もしながら性的には
葛藤する”というパターンが、すぐ脳裏に浮かんでしまう(これは、男である筆者の
限界かも知れない)。だがこの作品は、いろんな意味で、そのような過去の典型とは
微妙に一線を画する。その辺りが私には、<ハマリの悪さ>ないし、<座りの悪さ>
に感じられたのかもしれない。だが経験的に、このような違和感に近いズレは、(少
なくとも筆者にとっては)作品が何らかの新しさを含むことを暗示する場合が往々に
してある。
では、あらすじを追ってみよう。物語は三話に別れている。主要な人物も三人だ。
◆曖昧なまま突然物語は中断◆
第一話。主人公・鈴城(すずしろ)は、とある専門学校デザイン科の女子学生だ。
19歳、恋愛経験ナシの彼女は、男にこびるような態度を取る女を、むしろ女の立場か
ら軽蔑してしてきたタイプだ。実際、彼女の言動はサバサバしている。自嘲気味に自
分のことを、「図体がでかけりゃ態度もでかいし煙草だってやめるっつってやめない
し かわいさのかけらだってありゃしないよっ」と客観的に言ったりもする。年齢か
らいえば、それなりに自分が見えているタイプなのだ。だが彼女は、恋愛に全く関心
がないというわけではない。同じ学科の青梅(おうめ)英一に、「つき合いませんか
?」と声をかけられて、決してイヤではなかった。そして、その日のうちに鈴城は、
青梅と初体験をする。
第二話。鈴城に交際を申し込んだ青梅英一だが、ちょっとしたきっかけから、別な
女の子とも寝てしまう。相手は、水野というビジネス科の学生。彼女は、言動もルッ
クスも、男から見て「く(食)ったら甘そー!!」な「かわいいコ」だ。ある意味、
男の求める可愛い女を演じているタイプと言えなくもない。ところが、水野は以前か
ら、鈴城と青梅の(いわゆる“ラブラブ”な)カップルを観察しており、二人の気持
ちの通じ合う姿に興味を持っていた。だが、他人の男を横取りするのが水野の目的で
はない。実際彼女は、青梅とセックスしながら、「彼女(注・鈴城のこと)のことは
大事にしてあげてね でも あたしのことも 時々 大事にしてね」と言っている。
一方、初めて恋を知った鈴城は、完全に舞い上がっている。彼氏との交際の日々は、
もちろん楽しくもあるのだが、常に青梅が何をしているのか気になる、かなり悶々と
した日々でもある。なにより、自分が昔から嫌っていたはずの、“恋する乙女”のパ
ターンにはまってしまっている自分自身が許せない。彼女の中の客観的な部分は、恋
愛に振り回されている自分をどうしても自覚せざるを得ない。ところが、ある偶然か
ら鈴城は、青梅と水野のベッドシーンにばったり遭遇してしまう。当然、破局を迎え
そうになる主人公のカップル。
第三話。ここからが私には興味深かった。冒頭から、水野の一人称の語りが始まる。
普通ならば、カップルの撹乱役である彼女は、どちらかというと物語のはじっこにい
るはずだ。だが、彼女の内面が、それなりの説得力で描写される。水野は、「自分の
ことをとても とても普通でとても平凡で とてもとてもつまらない人間」と思って
いる。その一方で、同じように下らなく平凡で、なのにその自覚もない周囲の人間た
ちを、どこか見下してもいる。彼女は、毎日のつまらなさを埋めるように、寄ってく
る男たちと次々に寝る。セックスは水野にとって、“ちょっと特別な自分”を確認す
る作業にすぎない。だが、その効果はほんの一瞬で、長続きはしない。だから相手を
代えて繰り返す。劣等感と優越感を(本来ペアなものだが)両方抱えている彼女は、
恋愛を知らない。あまり知りたくもない。男には良くモテるので、恋したくてもでき
ないのではない。人を本気で好きになったことがないのだ。だからこそ、二人して互
いに熱い気持ちを向け合うことのできる、幸せそうな青梅と鈴城のカップルを見てい
て、単純に羨ましかったのだ。水野は二人の間に割って入った形にはなったが、本来
それ以上の関心を持っているわけではないのだ。だから、鈴城から平手を頬に一つ受
けても、どこか平然としている。その一方で、カップルの危機に臨んですっかりしょ
げている青梅英一に対して、水野の方から「あたしなんかのせいで別れたらダメだよ
絶対…」と、励ますようなことを言う。
話は概略、これだけだ。ラストで主人公のカップルが、破局をぎりぎり乗り切る可
能性が暗示される。が、本当はどうなるのかは曖昧なまま、突然物語は中断する。
◆女性マンガの<内側から>の変化◆
さて、このマンガを読んで、私はどうして<座りが悪く>感じたのだろう? いく
つかの理由が考えられる。
個人的に驚いたのは、三話目の展開だ。普通の恋愛マンガなら、間違いなく主人公
の激しい心の揺れに視点が移るはずだ。それなのに、まるで読者に肩すかしするかの
ように、(カップルから見れば)闖入者である水野の主体に視点が移され、それなり
の説得力を持って語られる。水野の立場は、その役柄からすると、ずいぶんと尊重さ
れていると言えるだろう。ところで、水野の内面の描写にページを割けば割くほど、
恋愛を価値のあるものと見なさず、宙に浮いた位置から観察するような態度に近づく。
恋愛という制度を、突き放して見る姿勢が強調されるのだ。例えば、ベッドシーンを
見られた後、水野がポツリとつぶやく独白がふるっている――「まだ こんなに若い
のに セックスも自由にできないなんて かわいそうね」。ついでに言えば水野は、
“恋愛と呼ばれる世の習わし”を、十分な距離を持って見ているからこそ、“男好き
する女”を上手に演ずることができるのだ。これは、ある立場からすれば、著しくイ
ヤな奴に違いない。しかし、彼女は間違いなく、副主人公の扱いを作劇上は受けてい
る。むしろ青梅の方が脇役に見える。
つまり、ここでの結論は、主人公・鈴城と、副主人公・水野の、両方の感性を同時
に持っているのが作者であり、おそらくは、この作品を指示する多くの読者でもある
ということだ。作品のスタイルは、絵的にもストーリー的にも、決してアバンギャル
ドではなく、(別に悪い意味でなく)平均の水準の女性向けマンガだ。特別突出した
才能とは言えないが、きちんとこの手のマンガの系譜の上に乗っているとも言える。
やや、フリーハンドの味を多めに残したその描線は、手作り系、言い換えれば“感性
のまま素直に描いている”ことを強調したスタイルだ。だとすれば、このマンガを消
費できる、多くの女性の恋愛に対する態度が、矛盾を含みつつも、“恋に恋する乙女”
のそれではなくなっているということだ。(言葉にすれば、あまりにも当然のことな
のだが…。)
「チッチとサリー」ではないが、恋愛が単純かつ自明な夢と、ほとんど疑いなしに
捉えられていた時代は、このようにして、ごく普通の少女〜女性マンガの<内側から
>の変化で、すでに終わりを宣告され、乗り越えられている。
<座りの悪さ>のもうひとつの説明は、男である私の個人的な問題になる。恋愛に
おいて、考え、迷い、決意し、選択していく物語の主体が、いよいよ女になってきた、
ということだ。恋愛への態度や、生き方のスタイルの違いを、“かったるさ”という
実感も含めて、自分のものとして生きているのは、ここでは女二人の方なのだ。男=
青梅は、すべてとは言わないがほとんどの場面で、ただ選ばれているだけだ。たしか
に、たまたま同時に二人の者に選ばれてしまった立場の迷いや苦悩というのもあって
よい。が、それはこの物語ではメインにおかれていない。あえて象徴的なことを言お
う。青梅とはまた、果実の名前でもある。青い梅、だ。そういえば、昔、「黄色いさ
くらんぼ」という歌があった。未熟なうちに摘まれるか、熟すまで枝にとどまり続け
るかを、果実の方では選択できない。正に、女が主体を持って行動する物語展開に、
男の読者である私は、居場所がなくなったような感覚を味わったのかもしれない。
☆筆者の阿部幸弘(あべ ゆきひろ)氏はマンガ評論家、精神科医。現在、『鳩よ!』
にコラムを連載しているほか『ガロ』『ユリイカ』『週刊読書人』『北海道新聞』な
ど多くの雑誌、新聞にマンガ評論を執筆している。
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〔News:本の情報〕
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▼新聞書評インデックス(1999年12月26日掲載分)
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○北海道新聞○
重松清著『日曜日の夕刊』(毎日新聞社)−評者・池上冬樹
ポール・ジョンソン著『ピカソなんてぶっとばせ』(共同通信社)−評者・林信吾
ワリス・ディリー著『砂漠の女ディリー』(草思社)−評者・くぼたのぞみ
ほかに「私が選んだ今年の3冊」を掲載
○朝日新聞○(休載)
○日本経済新聞○
「今年の収穫」「99私の選んだ3冊」を掲載
○毎日新聞○
鈴木正俊著『昭和恐慌史に学ぶ』(講談社)−評者・根井雅弘
河野雅治著『和平工作』(岩波書店)−評者・五百旗頭真
粕谷一希著『中央公論と私』(文藝春秋)−評者・川本三郎
関容子著『虹の脇役』(新潮社)−評者・渡辺保
田中優子著『張形』(河出書房新社)−評者・杉浦日向子
ルキアノス著『ルキアノス選集』(国文社)−評者・丸谷才一
○読売新聞○
「1999年・私のベスト3」を掲載
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▼新聞書評インデックス(2000年1月9日掲載分)
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○北海道新聞○
渡辺真弓著『韓国のおばちゃんはえらい!』(晶文社)−評者・黒田信一
稲葉真弓著『水中のザクロ』(講談社)−評者・吉田伸子
アンドリュー・クラヴァン著『真夜中の死線』(創元社推理文庫)−評者・吉野仁
マリオ・バルガス=リョサ著『官能の夢』(マガジンハウス)−評者・杉山晃
馳星周著『M』(文藝春秋)−評者・関口苑生
○朝日新聞○
アーサー・ゴールデン著『さゆり』上下(文藝春秋)−評者・斎藤美奈子
宮里政充著『吉屋鶴幻想』(菁柿堂)−評者・西垣通
トルーマン・カポーティ著『叶えられた祈り』(新潮社)−評者・荒川洋治
上林好之著『日本の川を甦らせた技師デ・レイケ』(草思社)−評者・池内紀
笙野頼子著『ドン・キホーテの「論争」』(講談社)−評者・清水良典
室田泰弘編訳『ディジタル・エコノミー2』(東洋経済新報社)−評者・太田弘子
○日本経済新聞○
細田衛士著『グッズとバッズの経済学』(東洋経済新報社)−評者・三橋規宏
スーザン・クイン著『マリー・キューリー』1・2(みすず書房)−評者・金子務
インゲ・カールほか編『地球公共財』(日本経済新聞社)−評者・井堀利宏
加藤典洋著『戦後的思考』(講談社)−評者・竹田青嗣
『三島由紀夫十代書簡集』(新潮社)−評者・佐伯彰一
○毎日新聞○
J・K・ガルブレイズ著『20世紀を創った人たち』(TBSブリタニカ)−評者・伊
東光晴
イマニュエル・ウォーラーステイン著『転移する時代』(藤原書店)/同著『ユート
ピスティクス』(同)−評者・山内昌之
レジス・ドブレ著『メディオロジー宣言』(NTT出版)−評者・三浦雅士
川床邦夫著『中国たばこの世界』(東方選書)−評者・日高晋
J・K・ローリング著『ハリー・ポッターと賢者の石』(静山社)−評者・小西聖子
岩野裕一著『王道楽土の交響楽』(音楽之友社)−評者・藤森照信
○読売新聞○
阿満利麿著『人はなぜ宗教を必要とするのか』(ちくま新書)−評者・上田紀行
加藤典洋著『戦後的思考』(講談社)/高橋哲哉著『戦後責任論』(同)−評者・広
岡守穂
アーサー・ゴールデン著『さゆり』上下(文藝春秋)−評者・井田真木子
マーティン・デイリーほか著『人が人を殺すとき』(新思索社)−評者・佐藤勝彦
秋山豊寛著『宇宙と大地』(岩波書店)−評者・田辺一雄
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▼今週のベストセラー ◇札幌・リーブルなにわ(2000年1月2日〜8日)調べ◇
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1 『これで決まり! 新動物占い』(扶桑社)714円
2 五木寛之著『人生の目的』(幻冬舎)1,429円
3 西村京太郎著『紀伊半島殺人事件』(双葉社)762円
4 五木寛之著『知の休日』(集英社)640円
5 辻仁成著『冷静と情熱の間 Blu』(角川書店)1,400円
6 江國香織著『冷静と情熱の間 Rosso』(角川書店)1,400円
7 乙武洋匡著『五体不満足』(講談社)1,600円
8 『KinKi Kids donnamonya!』(ワニブックス)1,500円
9 『続・伊藤家の食卓』(日本テレビ)1,000円
10 『このミステリーがすごい! 2000年版』(宝島社)667円
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〔Colum:北海道の本と文化〕
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★ヤイユーカラの森読書通信9(計良 光範) 日本社会に対する一つの挑戦
河野本道著『「アイヌ」−その再認識』(北海道出版企画センター 3800円)
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●多くの研究者たちが避けてきた主題●
本書は、河野の還暦を記念するものとして北海道出版企画センターによって企画・
刊行されたもので、「序文」にあたる文章が5人によって書かれているのは、そうい
った事情による。比較的最近に書かれた論文を集めているため、なかなか刺激的な一
巻になっている。収められている論文は以下の通りである。
総 論 / 「アイヌ」―その再認識(1998)
史的考察 / アイヌ語・日本語同根論の流れ(1985)
アイヌ語起源論の問題点(1988)
奥尻島―その自然および先史時代の社会・文化―(1998)
<アイヌ文化>としての<擦文文化>
―<アイヌ史>における<擦文文化>の見方―(1994)
アイヌの衣服資料―その文化的理解のために―(1997)
アイヌ・アイヌ系日本国民の内的及び外的関係(1997)
『蝦夷画帖』と『蝦夷生計図説』と『蝦夷嶋図説』
―それらの比較検討と民族誌的意義―(1990)
エンチゥ(カラフト=アイヌ)の人口と居住域の推移(1998)
<アイヌ史>の諸検討―主として北海道島を中心として―(1998)
現状分析 / 現代の「アイヌ民族」(1998)
『アイヌ文化法』(略称)について(1997)
参考論述・特記 /
アイヌとヴァンクーヴァー島付近のファースト=ネィションズ(1998)
メトロポリタン・ヴァンクーヴァーにおけるファースト・ネィションズ
―地元ファースト・ネィションズの動向を中心として―(1998)
William (Bill) Ronald Reid氏 年譜(1997)
本書について論評することは、難しい仕事だろうと思う。とくに「アイヌ」に関わ
る研究・学問に携わっている多くの人々にとっては、なるべくなら避けて通りたい主
題が多く含まれているからである。ほとんどが専門誌・書に発表されてきたこれらの
論文をまとめ一般書として刊行したのは、暦が一回りした河野が学界のみならず日本
社会に対しておこなった一つの挑戦として受け止めなければならないだろう。
●<ニュー・アイヌ>と<ポスト・アイヌ>●
本書の標題となっている「『アイヌ』―その再認識」の「結語」には、1200年間ほ
どに及ぶ両者の密接な関係に基づいて、「アイヌ」と「和人」とは形質面、文化面、
社会面で明確に区別をなしがたいと言い、「このような歴史的経緯をもつ<アイヌ文
化>は<半異風文化><半和風文化>と表現できるものであり、局面的な文化をもっ
てことさらに<和人文化>との違いが語られることには十分な注意を要する。また、
今日のアイヌ系の者に、形質的、社会的に一集団をなす『アイヌ』としての枠を被せ
ることは、通婚や社会融合の度合いからしてもはや客観的には無理である。主観的に
はどうあれ、客観的に今日のアイヌ系の者を<民族>あるいは<先住民族>と見なす
理由を見いだしにくい」と結んでいる。
この論旨に肯きながらも、私は海外の「先住民会議」に出かけていくし、昨年末に
は札幌で『フォーラム '99/先住民会議』を主催した。『ヤイユーカラの森』はアイ
ヌ刺繍講習会をはじめ、各種手仕事の伝承活動や、鹿狩りなどの野外活動も続けてき
たし、いまも仕事場では妻が古いカパラミプ衣の文様を復元し、タペストリーに仕上
げて講習会の教材とする作業に忙しい。矛盾はないのか?
「現代の『アイヌ民族』」を河野は、「現代の日本において『アイヌ民族』をどの
ように考えたらよいであろうか。このように設問するのは、アイヌ系の人びとの現実
と『民族』という概念との間に、埋め難い溝があると考えるからである」と書き出し
ている。しかし今、この設問に明確に答えられる人は――アイヌをも含めて、そう多
くはいない。
河野自身は、<ニュー・アイヌ><ポスト・アイヌ>という二つのグループに分け
ることによって、現代の「アイヌ」を位置づけようとしている。たいへん分かりやす
い分類ではあるが、アイヌとしての自覚のあるなしにかかわらずすべての「アイヌ」
をこの二つに分けて考えることは難しいだろう。その中間で揺れている「アイヌ」が
いるし、アイヌ人口が判然としてはいないことを考慮に入れてもその数は圧倒的に高
い割合を示すと思われる。
「民族」という概念については、世界的に「民族主義」的な発想や傾向に傾いた運
動が減少してきているように思われ、一頃顕著だった「排外主義」的な傾向も最近は
あまり見られない。一部の自称「〇〇民族」が執着し、声高に主張するほど、市民権
を得ていないのが実状であろう。「アイヌ像」の摸索に繋がるカナダでのフィールド
ワークの報告中に、河野は書いている。
今日のアイヌ系の人びとの場合は、かつての社会的個別性を無視する傾向が強い
が、カナダのファースト=ネィションズの場合には、離合集散はあってもバンドや
保留地により今日まで社会的な系譜を受け継いでいる。言い換えるなら、アイヌ系
日本国民の場合には、主観的に「アイヌ」に帰属することはできても、かつてのバ
ンド的な個別社会の中に身を置くことができないのに対して、カナダのファースト
=ネィションズの場合には、今日実際的に個別的な社会に属することができる。こ
のような両者間の相違は、歴史的条件の差異によるものと言えよう。
(「アイヌとヴァンクーヴァー島付近のファースト=ネィションズ」)
そこで<ニュー>と<ポスト>との中間にいる(だろう)多くの「アイヌ」が求め
ているのは、たとえ主観的ではあっても、アイヌとして帰属していく根拠なのである。
その時「民族」という概念が無力であることは、最近の10年ほどの間に嫌というほど
認識させられてきた。「一本でもニンジン」ほどの説得力も、そこにはないのだ。
●「アイヌ文化法」と研究者たちへの批判●
河野は、「『アイヌ文化法』(略称)について」で書いている。
誰が「アイヌ」であるかを特定する方法(条件)を示さずに、あたかも「アイヌ
文化」の担い手である「アイヌ」あるいは「アイヌ民族」が存在するかのように記
している同法の表現も不適切である。今日一般的に「アイヌ文化」と言われている
ものは、<アイヌ諸社会を基盤として生じた諸文化の残存要素>であり、アイヌ諸
社会の社会的基盤の上に成り立つ本来的な意味での「アイヌ文化」ではない。そし
て、同法は<「アイヌ文化」の残存要素>を、今日の日本において国民が共有する
という立場をとっているわけであるが、それでは「アイヌ文化」の社会的基盤の歴
史上の変更を容認し、アイヌ諸社会の継続を歴史上で否定することを意味すること
になる。このことは「アイヌ文化法」における「アイヌの人々の自発的意思及び民
族としての誇りを尊重する」という謳文句に反する矛盾点である。
同法制定の最大の目的ともいえる、「アイヌの抹消」に繋がる国家の仕掛けた陥穽
を指摘する河野の批判は、さらに同業の研究者たちにも鋭く迫っている。
そのような(アイヌ関連の)印刷物の山は、あえて「アイヌ(民族)像を鮮明に
するためや、自己満足するための悪あがきの結果としか見えません。「アイヌ文化
法(略称)」は、狡猾な政治屋や行政の担い手たち、安易なマスコミ関係者、自己
満足型の市民運動家や宗教家、そして体制迎合的であったりマニア的であったり強
い高名心をもったりしてきたアイヌ研究者たちと、それらへの依存者たちによる合
作と評して良いものと見られます。また、それはまさしく虚像創出のためのものと
も言えます。というのは端的に言うと、社会的基盤をもたない<文化>は<見せか
けの文化>でしかないからです。
ところが、これに対して多くのアイヌ研究者は、陰では批判的な言動を示しなが
ら積極的あるいは消極的に協力したり、あるいは見て見ぬ振りをしたりして、「ア
イヌ」であると主張することをもって伝家の宝刀とするような仕方が、根深い社会
的な矛盾から目をそらさせることにしかならないというような批判的な見解を、決
して示さずにきました。
このあと河野は、研究者たちのそのような態度について思い当たる理由を何点かあ
げている。痛烈に核心を突いているその指摘は研究者のみならず、彼らを放任し、と
きに彼らに凭れかかってきたアイヌにもまた鋭く突き刺さってくるのだ。
ともあれ――括弧が付こうが付くまいが、現在アイヌが生きていることは確かであ
る。さもなければ、札幌市内の有数寺院の構内に被差別部落民と並べてアイヌを誹謗
する落書きが為されるはずがない。アイヌ自身が幻想の「アイヌ像」を追いかけてい
る間に、社会は差別・攻撃するべき対象としての「アイヌ像」を育んでいたのだ。
差別とは闘わなければならないし、<残存要素としてのアイヌ文化>に依拠しなが
らでもアイヌ意識を育成していかなければならない。古い着物からの復元作業が作り
出す作品が現代作品であるように、そこに依拠して形成される「アイヌ意識」は現代
人の意識である。この点で、学者である河野と我々の共同作業は、より重要であると
言えるだろう。
本書には私も序文を寄せたのだが、そのあとでこんなことを言った記憶がある。
「河野さんの仕事や考え方と私の考えている事とは、将棋の駒の裏表だと思う」…
…つまり、歩が成金になるように、駒が反転したときに見えるのが現代の「アイヌ像」
ではあるまいか? そんな気がしているのである。
本書が、アイヌがアイヌになり、アイヌであり続けようとするときに、一里塚の役
割を果してくれることを信じたい。
☆筆者の計良光範(けいら・みつのり)氏は、アイヌ文化の再生を目的に自ら活動す
る「ヤイユーカラの森」を秋辺得平氏などとともに設立、現在、事務局長。著書には
『アイヌの世界』(明石書店)などがある。
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