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 【週刊・読書北海道メール版】 復刊第30号(通巻161号)  1999/7/13発行
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=====【今週の目次】=========================================================
〔Colum:本と批評〕
1)月刊漫画時評5(阿部 幸弘)  エロマンガの現在?(その3)
〔News:本の情報〕
2)新聞書評インデックス−99年7月11日掲載分
3)今週のベストセラー−札幌中央区編
〔Colum:北海道の本と文化〕
4)ヤイユーカラの森 読書通信6(計良 光範)
      原田勝弘ほか編著『環太平洋 先住民族の挑戦』(明石書店、3800円)
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〔Colum:本と批評〕
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●月刊漫画時評5(阿部 幸弘)  エロマンガの現在?(その3)

         赤川学著『性への自由/性からの自由』(青弓社、2266円)ほか
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 ◆アバンギャルドな表現技法の開発◆

 さて、前回は、男性向けエロマンガの中から、美少女コミックを取り上げた。今回
は女性向けのエロマンガ(レディースコミック)を見てみよう。
 考えてみれば、女性向けのポルノグラフィーが堂々と表立って発展してきている事
自体、歴史的に重要な分析対象だと思うが、その中から突出したものをサンプリング
したい。レディースコミックと呼ばれるジャンルも、決してポルノ的な機能だけでは
ない。だが、ジャンル成立当時から連綿と続いている、読者の性的な“実体験”を素
材にしたサブジャンルは、根強い人気がある割に、単行本が出るでもなく作家が注目
されることも少ないと言える。逆に言うと、読み捨てられ、あまり表に出ないこのサ
ブジャンルこそ、女性向けエロマンガとしての中核的機能を持つ部分なのだ。あくま
で(ポルノグラフィーとして)実用的に流通し、<使わない>読者には認知もされな
い作品の群れ。ところが、その実用性の飽くなき追及の結果、ある意味で最もアバン
ギャルドな表現技法が開発されているというのが興味深い。
 現在私の知る限り、エロマンガの<エロ>の部分の徹底度に於いて、頂点を行って
いるのが柏原妃呂美だ。月刊誌『コミック・アムール』(サン出版、 381円)の1999
年7月号を見てみよう。「アムールを読んでいるあの女はこんなSEXをしている!!」
というタイトルからして十分すごい。ここで読者に、(媒体が電子メール新聞ゆえ)
実際の画像を見せられないのが残念だ。初めて彼女の作品を見る者は、ページを開い
たとたん、そのドラッグ的などろどろの陶酔感に度肝を抜かれることと思う。私自身
も、「マンガにはこんな表現技法も有り得たか!」と驚き、軽い眩暈を覚えた。無理
を承知で、言葉での紹介を試みる。

 ◆マンガの持っている過剰さを極限まで◆

 「埼玉県/近藤美紗子<仮名> 28歳/某中堅地方銀行勤務」という肩書きの読者
の“体験談”を基にした7月号の作品は、マンガと絵物語のまじり合った地点に位置
し、しかもポルノとして突出している。ページの真ん中を蛇行するように、「自分の
淫乱パワー信じて飛び込めばきっとつかめるデカチン」という文字が、さながら歪ん
だ蚯蚓のごとくねじれながら流れていく。そして、ページ右上には「逆転官能ヤリま
くりチン根絞り! 秘丘でこすってご指導SEX愛液どしゃぶり窒道!!」という煽り
文句が配置される(以下、ページ全体に様々な煽り文句)。そのすき間に、小さな文
字で読者の“体験談”が語られ、結果としてページ全体が大小の文字でほとんど埋め
られる。にもかかわらず、これらの密度の濃すぎる写植の物量作戦に負けじと挑むか
のように、マンガ家の手になるポルノ的な画像が、文字と溶け合いながらページを全
体を埋めていく。
 こうして、文字と画面が渾然一体に構成される。コマの展開は文字に遮られ、文字
は画像に遮られバトルを繰り返す。煽り文句やら、「はあ、はあ」とか「ムニュムニ
ュ」「グリグリ」などのオノマトペ(擬音語)までもが、重層的に配置されて、もう
どのページも、これ以上ないほど性的な画像と性的な言葉で飽和している。マンガが
本来的に持っている過剰さを、極限まで押し進めたこのスタイルは、まるで幻覚体験
のような溶けた時間の流れを印象付けるのだ。
 男性向けエロマンガが、女性の体をひたすら都合良く(有り得ないコラージュまで
して)盗み見ようとしているのなら、この女性向けポルノコミックは、極限の快感の
存在を暗示しているように見える。身も心も、否、時間や人格までも溶けてしまうよ
うな、ほとんど覚醒剤体験のごとき性的快感の存在を暗に示すことは、あたかも「あ
なたの性体験は完全ではない。あなたは本当のめくるめく快感を手にしていない」と、
読者に宣言しているかのようだ。

 ◆コインの裏と表の関係◆

 さて、今回でとりあえず「エロマンガの現在?」をなんとか終わらせようと思う。
が、最後に、なぜ筆者が“エロマンガみたいなくだらないもの”(実はそう思ってい
ないのはこのシリーズを読んでくれている方には明らかだろうが)にこんなパワーを
割いたのか、頭の固い一部の読者のために説明しておいた方が良いかもしれない(不
必要な方はこの部分をどうぞ、すっとばして下さい)。
 個人的な動機自体は単純だ。マンガ評論をやっていて、質量ともに無視できないジ
ャンルであることを自覚したこと、この一点に尽きる。だが、丁寧にエロマンガを見
ていこうとした時に、何がエロで何がそうでないか、あるいは誰が何を性的なニュア
ンスで受け取るのか、様々な疑問と、実際のバリエーションの渦に巻き込まれること
になった。つまり、作業を始めたとたん、今まで漠然と体験的に自明と思っていたこ
とが、実は少しも自明ではなく、早晩、むしろ自らの方を問わねばならないことに気
付かされてしまったのだ。
 そんな感触を抱いていた矢先、また示唆的な本に出会った。赤川学『性への自由/
性からの自由−ポルノグラフィの歴史社会学』(青弓社、2266円)だ。本書に出会っ
て分かったことは、ポルノグラフィーという現象を理解することは、現代に生きる我
々の、ジェンダーだのセクシュアリティーだのの、生々しい議論と深く直結している
ということだ。我々はポルノグラフィーの発明以降の時代に生きているのだ。この欄
で扱っているのは、ポルノ全体ではなくマンガに限っているとは言え、問題意識は間
違っていなかったという感がある。
 “エロマンガ”とか、“ポルノ”とかの、タイトルだけで目を背けてしまう読者は
如何ともしがたい。もちろんここで、人に嫌なものを押しつけるようなことをしたい
わけではないのだ。ただ、目を背けるという行為自体が、ポルノグラフィーへの明確
な態度の取り方であり、その人の意識表明だということだ。我々は、出歯亀になった
り無視したりする自らの態度を含めて、分析の対象としなければならない。それはコ
インの裏と表の関係にあることに過ぎないのだ。だから筆者は、“ついついエロマン
ガを、くだらないと思いつつも見てしまう自分”を見ているつもりだ。
 おっと、こんなことばかり書いていると、また原稿が長引いてしまう。どっちにし
ろ、それだけ根の深い問いに簡単に答えるのは無理だということが分かったので、こ
の作業は、別な形でじっくり展開することにした。

 ◆ポルノグラフィーの限界を擦り抜け◆

 エロマンガというテーマを一旦終えるにあたって、筆者が個人的に注目している作
家を二人あげておきたい。ポルノの機能を持ちながらも、表現として簡単に飽和しな
いもの、いや、それは並大抵のことではないから、少なくとも飽和しない可能性を持
つものとしてあげたい。
 ひとりは、一部では大分話題になっている作家、町田ひらく。幼女姦の物語ばかり
描く彼の作品には、虚実の危うさがいつも漂っている。マンガという虚構の中で、幼
女をいたぶる彼の視線は、逆に幼い少女の“少女性”がいかに大切なものかを心底感
じているように思える。実はこの、幼女を愛でる現実社会の“常識的な”視線と、幼
女を犯す町田の虚構との関係は、やはりコインの裏表だ。虚実の被膜が簡単に破れる
危うさを、読者は味わいながら読み進むことになる。その意味で非常にロマンチック
なマンガだ。最新作の『green−out』(一水社、819円)をおすすめしよう。
 もうひとりは、あめかすり。『オママゴト』(ふゅーじょんぷろだくと、924円)は、
レトロなグラフィック感覚を意図的に取り込み(永島慎二などを思い起こさせる)、
自在な感性で、物語的な文脈から外れた詩的な狂気の世界を組み立てる。それでいて、
ポルノとして描くものは描いているというのが新しい。
 これらの作家は、過激さで押し進めば簡単に飽和してしまうポルノグラフィーの限
界を、別なルートから擦り抜けて行っているように思える。
 ただし、このジャンルの場合、どうしても最終的には、個人的な嗜好の話が出てき
てしまう。だが、それでも一読の価値はあると思われる。

☆筆者の阿部幸弘(あべ ゆきひろ)氏はマンガ評論家、精神科医。『ガロ』『ユリ
イカ』『週刊読書人』『北海道新聞』など多くの雑誌、新聞に評論を執筆している。

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〔News:本の情報〕
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▼新聞書評インデックス(7月11日掲載分)
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○北海道新聞○
貴田庄著『小津安二郎のまなざし』(晶文社)−評者・佐藤忠男
法月綸太郎著『法月綸太郎の新冒険』(講談社)−評者・千街晶之
アンドリュー・モートン著『モニカの真実』(徳間書店)−評者・柴口育子
畠山重篤著『リアスの海辺から』(文藝春秋)−評者・足立倫行
板東興著『心臓外科医』(岩波新書)−評者・米山公啓

○朝日新聞○
林丈二著『閑古堂の絵葉書散歩』東編・西編(小学館)−評者・赤瀬川原平
海野一隆著『地図に見る日本』(大修館書店)−評者・黒田日出男
石川九楊著『二重言語国家・日本』(NHKブックス)−評者・河谷史夫
日野啓三著『天池』(講談社)−評者・松山巌
ケヴィン・マイケル・ドーク著『日本浪漫派とナショナリズム』(柏書房)−評者・
山室信一
中野孝次著『「悦楽の園」を追われて』(小学館)−評者・長谷川眞理子

○日本経済新聞○
武藤博道著『消費不況の経済学』(日本経済新聞社)−評者・西村清彦
李文烈著『皇帝のために』(講談社)−評者・川村湊
岸宣仁著『経済白書物語』(文藝春秋)−評者・山崎宏
佐藤良明著『J−POP進化論』(平凡社新書)−評者・北中正和
丸山健二著『虹よ、冒涜の虹よ天池』上下(新潮社)−評者・樋口覚

○毎日新聞○
大江健三郎著『宙返り』上下(講談社)−評者・池澤夏樹
天児慧ほか編『岩波現代中国事典』(岩波書店)−評者・山内昌之
浅井信雄著『東南アジアを読む地図』(新潮社)−評者・日高晋
ボイス・レンズバーガー著『生命とはなにか』(青土社)−評者・海部宣男
下坂幸三著『拒食と過食の心理』(岩波書店)−評者・小西聖子
脇田晴子著『中世京都と祇園祭』(中公新書)−評者・五味文彦

○読売新聞○
外間守善著『海を渡る神々』(角川書店)−評者・港千尋
ラッセル・ミラー著『マグナム』(白水社)−評者・大石芳野
ラジニ・コタリ著『インド民主政治の転換』(勁草書房)−評者・竹田いさみ
丸谷才一著『新々百人一首』(新潮社)−評者・川村二郎
J・レイティほか著『シャドー・シンドローム』(河出書房新社)−評者・城戸朱理
梅崎義人著『動物保護運動の虚像』(成山堂書店)−評者・野矢茂樹

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▼今週のベストセラー     ◇札幌・リーブルなにわ(7月4日〜10日)調べ◇
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1 大野晋著『日本語練習帳』(岩波書店)660円
2 末政ひかる著『たれぱんだ』(小学館)1,300円
3 Glay写真集『Life Record in America』(ワニブックス)10,000円
4 『VOW 11』(宝島社)857円
5 西村京太郎著『十津川警部 赤と青の幻想』(文藝春秋)762円
6 大川隆法著『繁栄の法』(幸福の科学出版)1,600円
7 山崎豊子著『沈まぬ太陽1(アフリカ篇上)』(新潮社)1,600円
8 乙武洋匡著『五体不満足』(講談社)1,600円
9 山崎豊子著『沈まぬ太陽2(アフリカ篇下)』(新潮社)1,700円
10 ナンシー関著『耳部長』(朝日新聞社)1,000円
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〔Colum:北海道の本と文化〕
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★ヤイユーカラの森読書通信6(計良 光範) アイヌへの差別を露呈した渡辺論文

      原田勝弘ほか編著『環太平洋 先住民族の挑戦』(明石書店、3800円)
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 ■マスコミ人の倣岸不遜さ■

 原田勝弘・下田平裕身・渡辺秀樹編著『環太平洋 先住民族の挑戦―自治と文化再
生をめざす人びと』(明石書店、3800円)は、<世界人権問題叢書>シリーズの第27
巻で、1995年8月明治学院大学でひらかれたフォーラム「もうひとつの戦後五〇年・
民際フォーラム」のゲストとなったミスキート(ニカラグア)、アボリジニ(オース
トラリア)、タイヤル(台湾)、ウィルタおよびニブヒ(ロシア・サハリン)、アイ
ヌ(日本)など環太平洋地域に住む先住民族参加者へのインタビューや、その後の現
地での研究調査を含めておこなわれた研究活動のまとめとして編集された。内容は次
の通りである。

 1章「北米・ディネの強制移住問題」(馬籠久美子)
 2章「ニカラグア大西洋岸先住民の自治への挑戦」(下田平裕身)
 3章「オーストラリア・アボリジニの闘いと和解への道のり」(白石理恵)
 4章「アオテアロア(ニュージーランド)/マオリ・ワイタンギ条約の現状」(デ
   ィーン・ブラウン、白石理恵・訳)
 5章「台湾『原住民族』の『権利促進運動』と文化復権」(原田勝弘・渡辺暁雄)
 6章「南サハリン先住民族の戦後補償要求」(千葉茂樹・藤野和明)
 7章「『先住民族』としての認識を求めるアイヌ」(宍戸仁明)
 8章「活きた民族言語を求めて−日本・アイヌ」(渡辺秀樹)
  9章「リゴベルタ・メンチュウからのメッセージ」

 以上のなかで問題にしたいのは、8章の渡辺論文についてである。
  本書の編者の一人でもある渡辺は、7章を書いている宍戸とともにNHKに在籍す
る番組制作者であり、過去に北海道勤務が長かった。アイヌとの付き合いが比較的深
かったマスコミ人といえるだろう。しかし、宍戸に見られる「マスコミ人による問題
提起」といった論の展開と異なり、渡辺の論調からは「マスコミの倣岸不遜さ」ばか
りが感じられるのである。

  この稿ではアイヌをアイヌ民族とは呼称しない。今までは「アイヌ」は蔑称とみ
 られたきらいもあるが、アイヌを誇り高い呼称と思う人が増えてきた。私も「アイ
 ヌ」には美しい響きを感じる一人である。アイヌを抑圧した民族は和人、大和民族
 であった。「和人」はアイヌ側からは侮蔑的な響きをともなって、「シャモ」と呼
 ばれてきた。しかし、ここではアイヌと非アイヌとの今後の共存を考慮して互いに
 偏見と差別の感じられない、同じカタカナ名称の「ノンアイヌ」と呼ぶことにした
 い。

 冒頭に述べられたこの文章の倣岸さ、腰の高さはどうだろう。明らかに論理として
はおかしい内容であるのに、すべてを「私」の権威、独断で押し切っている(“押し
切ろう”ではない)のだ。己の意識、感性こそが正義であるという、マスコミ(人)
の特権感覚が如実に表われているといえる。この文言の底に露呈している筆者の“偏
見と差別”性を読取ったのは、私だけではないだろう。
 「この稿では、先住民族としてのアイヌが奪われた母語を取り戻そうとして、どの
ように試み、倒れ、また立ち上がっていったかを、八人の生き方を通して跡づけてみ
たい」とあるが、結局そういった内容にはなっていない。それはここに選ばれた8人
が、このテーマに沿って選ばれた人びとではなく、渡辺が過去の取材中に出会い話を
聞くことが出来たなかで“気心のしれた”人だけを登場させたからであろう。彼が恣
意的にピックアップした人びとを、自分の“都合”に合わせて紹介し、“都合”のい
い言葉だけを記述する。それはこの国のマスコミでは珍しいことではないが、とくに
テレビにおいて著しいこのやり方が多くのステレオタイプを創出してきた。かつて、
『北海道の女たち』(1976年)、『続北海道の女たち―ウタリ編』(1981年)で高橋
三枝子がおこなった“人間像の捏造”にも重なって見える。

 ■差別的な独断と誤認に基づいた許し難い暴論■

 紹介されているのは、貝澤正(故人)、葛野辰次郎、萱野茂、郷内満、川上宏、砂
澤ビッキ(故人)、中本むつ子、加納オキの8人(敬称略)。それぞれについての記
述の中で、とくに気になった部分を拾ってみる。
 1974年、貝澤が団長をつとめた第1回北海道アイヌ中国訪問団の成果を述べている
中に「……アイヌが初めて一致団結したことである。それまでアイヌは日本国内で『
日陰者』として生きてこざるをえなかった。シャモに媚びることが生活の糧を得る手
段であり、そのための仲間同志の『足の引っ張り合い』は日常茶飯事だった。(中略)
この試みはそれまでにはなかった革命的な変化を、四分五裂のアイヌにもたらした。
連帯である。シャクシャイン戦争以来分裂して雲散霧消したアイヌは再生融合を始め、
再び一つの姿を見せてきた」(貝澤正についての記述)とある。前段の差別的な独断、
後段の歴史的事実の誤認に基づいた独断、いずれも許し難い暴論である。
 同様の記述は他にもある。「1909(明治42)年北海道のコタンを見聞した小説家岩
野泡鳴の印象は『アイヌは……どうせ、滅亡に瀕する劣等人種ではないか?……生き
物として飼い殺しにするだけの保護を与えてやればよい』であった。世間一般の見方
は大正昭和の時代を通じても岩野泡鳴と同様だった。生活苦、教育困難、就職・結婚
差別から社会的存在としての自己を抹殺されたアイヌは自暴自棄となりアルコールに
溺れる者の姿がアイヌコタンの日常的風景となった。こうした状況のなかで内部の不
信・確執は深刻となり、『足の引っ張り合い』から大同団結は遠くなった」(同上)。
この渡辺の記述が、岩野泡鳴の印象記よりはいくらかマシだといえるだろうか?
 貝澤はじめアイヌによる著述のなかには、同胞の悲惨な生活状態や追いつめられた
者の心理、精神の荒廃について記されたものも多いし、幕末・明治・大正期にこの地
を訪れた内外の人々による紀行文中にも、当時のアイヌの状況が述べられている。し
かし、渡辺がそれらの断片をつなぎ合わせて上記のように裁断・縫製し、読者をマイ
ナスのステレオタイプ形成へと導く暴挙は許されない。
 葛野辰次郎についての記述中にある「そもそもアイヌプリという言葉すら死語に近
くなっている」という渡辺の認識の、根拠はどこにあるのか? 私が知っている限り
でも、身内に後継者を持っている葛野を「後継者がいない、という冷厳な現実のまえ
にはなす術がない。人生の落日はもうすぐに迫っているというのに」といい、「葛野
辰次郎エカシの絶望はいよいよ深い」と評する渡辺の傲慢さには驚くほかない。
 郷内満、川上宏という二人の元教師を何故登場させたのか? 渡辺が個人的に、あ
るいは仕事の上で、当時付合い得た数少ない教師だったから……としか考えようがな
い。両人の教育現場での実践や運動がどうであったかという評価は別にして、共通し
ているのは既に教室からは離れてしまっているということである。そして彼らの実践
(試み)が、継続され検証され得ない現在、ここに登場させるのは“伝説の人”とし
てでしかないのだ。伝説上の人物は、概ね美化・理想化され、その業績は過大に評価
されるのが常である。しかし、彼らの“仕事”は消えてしまっている。教育とは、終
わることのない営みであるはずなのに……。
 本当に彼らの“共闘の持続”“共闘の挫折”を描くのであれば、その微細な真実を
こそ記さねばならなかった。この中に登場する二人の「和人」なのだから、アイヌと
和人との共闘とは何か、何をもって共闘が成り立っていたのか、そして何故その場か
ら離脱していったのか、書かれ検証されなければならない事柄は多い。「アイヌでな
い者にアイヌの本当の気持ちは分からない」ところから始まるのが“教育”である。
だからこその“教育者”である。その核がない“伝説の創出”は、書かれた当人にと
ってもブリキの勲章でしかない。
 加納オキについて「彼はノンアイヌとして芸術家の家庭で育った。知里真志保以来
の官学出身エリートである」と書いていることからも分かるように、渡辺は自身の中
にある差別意識を払拭も隠蔽も出来ない人である。
 論稿のおわりにはこうある。

  貝澤の人生は、それまでは往々にして権利のみをねだっていた「悪弊」を正し、
 日本のなかのアイヌ像をも訂正していく道程でもあった。貝澤のようなリーダーが
 アイヌのなかにあった抜きがたい「内なる差別意識」あるいは「奴隷根性」を取り
 除き、アイヌに自信を芽生えさせた。

 ■アイヌ差別の現実を体現■

 テレビのドキュメンタリー番組の制作現場に何度か居合わせて分かったことは、デ
ィレクターの頭の中や台本には、撮影に入る前に既に完成作品のイメージが出来上っ
ているということだった。だから、そのコンテに必要な映像や音声だけを収録してい
くのであり、偶然とか飛躍とかはめったに採用されない。取材されている人間は、テ
レビ側に要求されている内容だけを語り、見せることになる。ディレクターのイメー
ジが貧困ならばつまらない作品ができるのは当然としても、彼(あるいは彼ら)のイ
メージが豊かであれば良い作品に仕上がるかというと、そういう訳にもいかない。広
範な知識と柔軟な感性がなければ、結果として駄作・愚作を作り出してしまうのだ。
 偏見や誤認識に基づいて「持論」を展開するような制作者は意外に多くいる。彼ら
が作った作品は最悪である。しかも彼らの多くは、自らの傲慢さや差別性に気づいて
いないのだ。そして一様に口にするのは「私は○○さんと知り合いで」とか「△△さ
んとは長い付合いで」といった言葉である。誰とかさんの知り合いであることで、自
分の権威を認めさせようというのだろう。
 それが習い性になったNHKディレクターの渡辺が編者に加わったのが、本書の不
幸だった。他の論稿に、興味深く優れたものが多いだけに、本当に残念だ。明石書店
も「世界人権問題叢書」中に、アイヌ差別の現実を体現したかのごとき論稿を加えて
しまったことになり、長く禍根を残すことになった。

☆筆者の計良光範(けいら・みつのり)氏は、アイヌ文化の再生を目的に自ら活動す
る「ヤイユーカラの森」を秋辺得平氏などとともに設立、現在、事務局長。著書には
『アイヌの世界』(明石書店)などがある。

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