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【週刊・読書北海道メール版】 復刊第6号(通巻137号) 1999/1/12発行
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=====【今週の目次】=========================================================
〔Colum:本と批評〕
1)月刊漫画時評1(阿部幸弘) マンガの中の暴力表現の微妙な変化
〔News:本の情報〕
2)新聞書評インデックス−99年1月10日掲載分
3)今週のベストセラー−旭川編
〔Colum:北海道の本と文化〕
4)ヤイユーカラの森読書通信2(計良光範)『新版 近代化の中のアイヌ差別の構造』
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〔Colum:本と批評〕
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●月刊漫画時評1(阿部 幸弘) マンガにおける暴力表現の微妙な変化
『R』『悪魔の帰還』『幕末暗殺』の3冊を読み解く
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◆表現の変化の質を読み解く鍵◆
近年のマンガの暴力表現は、微妙ではあるがしかし、決定的な質の変化を起こして
いるように思える。それが何なのか、あるいはどういう現象なのかを言い当てる所ま
では、私自身の考えも正直まとまっていない。が、とりあえずここでは、三つの作品
を素材にして、行けるところまで考えを進めてみよう。
まず、テキストを紹介する。一つ目は、スタンダードな暴力表現の最先端に位置す
ると思われるカネコアツシ。去年一気に多数の単行本が出たが、その中から、非常に
小気味よい短編集『R(アール)』(祥伝社、905円)を取り上げたい。次に、マ
ンガの中の荒唐無稽なパワーの復権という、ここ数年のムーブメントに押されて実現
したように思える、村崎百郎と森園みるくの共作『悪魔の帰還』(太田出版、130
0円)を。そして三つ目は、“暗殺”という行為――現代社会の中では少なくとも表
面上、忌避され隠蔽されている古風な暴力のスタイル――について、深い考察を巡ら
せた黒鉄ヒロシの傑作、『幕末暗殺』(PHP研究所、1429円)を取り上げる。
これら三冊は、それぞれ多少なりとも作品としての必然性があって、殺人という究
極の暴力に言及、ないしこれを素材として扱っている。だが、作家のスタンスがあま
りにも異なるため、あくまで偶然、たまたま同時期に市場に投入されただけの無関係
なものに見える。だが、この、作者の姿勢の違いの振幅が異常に大きいという事実こ
そが、マンガ表現の質の変化を読み解く鍵になるのでないか? ここではそう仮定し
て、敢えて三者の関係について考えてみたい。
何はともあれ、まず、それぞれの作品を紹介しよう。
◆人の命の極端な軽さ◆
カネコアツシは、異質なものの出会いから生まれたミュータントのような存在感の
作家だ。一目見れば、アメリカン・コミックスの影響は(絵柄の面で)誰でも気付く
ものの、コマ割りの文法やダイナミックなストーリー指向などの点では、かなり日本
マンガ的な要素も持っている。そんなカネコの描く暴力は、徹底してドライでナンセ
ンス、しかも同時に、フィクションとして非常に洗練された印象を与える。だから、
単純に言って、読後感がスッキリしておりひたすらカッコイイ。血の流れ方飛び散り
方ひとつ取っても、イラストレーションのように美しい。作中では沢山の暴力、沢山
の殺人が、当然のように描写されていくが、そのどれも、犬死に以下の無意味な死、
何の意味もないアクシデントであることが強調される。殺す方にも殺される方にも、
たまたま居合わせたという以上の関わりが無く、仮に人物が闘う関係に置かれても、
互いになんらの思いこみのかけらも抱かない。徹底して非情なのだ。例えば、『R』
冒頭の短編「コンビニエンス・フィクション」は、登場人物たちがちょっとした偶然
で<出会わない>でしまったがために、彼らの間に<何のドラマも生じなかった>と
いう話である。殺人は別々に違う場所(物語の外)で起こるのだが、コンビニ強盗と
コンビニ店主は、意味もなくすれ違うだけなのだ。これほど徹底してナンセンスであ
るために、カネコの描く殺人は、時に冗談のような軽さを呈する。そして、そのよう
な人の命の極端な軽さこそが、逆説的に読み手にリアルな感触を与えるのだ。
フィクションとしてのマンガの流れの中で、カネコの暴力表現は、異端というより
現時点での最先端だと考えられる。このあたりの感触は、大友克洋が登場した時の事
情と多少似ている。絵もストーリーも間違いなく異質で新しかった大友のセンスは、
結果的には非常に多くのエピゴーネンを生み、今では不特定多数の作家群に吸収され
てしまった観さえある。カネコアツシも、未知数だが、そうなる可能性を持っている。
◆行為の意味を剥ぎ取る姿勢◆
次に、村崎百郎・原作の、森園みるく『悪魔の帰還』を見てみよう。作者らが、自
らすすんでB級を狙っているのだから当然なのだが、カネコアツシと比較するとすべ
ての点でとても泥臭いマンガだ。しかし、殺人という行為から可能な限り“意味”を
剥ぎ取ろうとする姿勢に於いて、一見共通する側面も持っている。実際、原作の村崎
は、主人公の殺人鬼・西陣直人の手記という形で、登場人物に「殺人は芸術(アート)
である」「俺の殺人には美学はあるが動機はない」等々と発言させ、動機や倫理の不
在を徹底して読者に印象付けようとしている。物語も同様で、14才の時殺人を犯し
た主人公が、少年法の適用を受け短期間で社会に戻り、その後手記を発表、マスコミ
にスターのような扱いを受け、ついには“殺人アーチスト”と称して活動するという
設定になっている。自らの殺人行為を芸術と公言してはばからず、感情のかけらも持
たない殺人鬼・西陣直人は、社会から激しい反発を浴びると同時に、否、それゆえ更
に知名度と人気が高まっていく。そして、物語の後半に向かって、被害者やその家族
を含めた主要な人物が、あたかも我も我もと先を争うように、どんどん怒りをあらわ
にして皆が皆、血とセックスに溺れ出す。このあたりのハチャメチャな展開を、マン
ガの持つ荒唐無稽さと捉えて、楽しむことは十分可能である。
その意味でマンガ家森園みるくは、職人的なレベルで十二分に作品を支えている。
性交場面の描写、美男美女の顔の造り、セクシーな裸体などなど、読者がマンガに要
求するすべての要素をジャストに満たしている。このほとんど完璧なコントロールは、
もちろん森園のプロとしての力量なのだが、必然的に表現としては裏腹なものを抱え
込まざるを得ない。カネコアツシの描写のような、未来から降ってくるごとき違和感
とスリルを、ズレとして表現にはらむことができないのだ。けれども、そもそもB級
に徹するとはそういうことなのだろう。この結果として当然読者は、自分の見たいも
の(性的興奮やちょっとした背徳など)だけを、鏡のように作品の中に見ることにな
る。
このような作品全体の構造から、原作のメッセージの伝達は原理的に不可能になっ
ている。たぶん原作者の持っているテーマは、所詮は人類皆腹の底にどす黒い醜悪な
欲望を持っている、ということなのかも知れない。そして、それをたたきつけること
によって“良識人”を怒らせ、さらにはその怒りを根拠に、お前も同じ穴のムジナだ
と宣言したいのかも知れない。その考え方について議論するつもりはないが、残念な
がら表現としてその地点に到達できていないと言わざるを得ない。
だが、考えてみれば、「俺の殺人には美学はあるが動機はない」と主人公が言う時
の、“美学”こそが人間にとって、それこそ究極的な“意味”ではないのか? する
とこの作品は、殺人から“意味”を剥ぎ取ろうとして反対に、究極の意味を付加して
していることにならないだろうか? この作品の特徴は、その“意味”がどこまでも
個人的であるが故に、一人の共感者もなしに、主人公が社会から孤立する所にある。
そしてもしも、たとえ周囲から完全に孤立しても、自分の美意識を貫こうとする人間
が居たとしたら、それは自らの命を懸けたテロリストの心理と極めて類似してくるこ
とになるのではないか。村崎が“良識人”というものを設定して、その感性を逆撫で
しようとすればするほど、むしろ右翼的と言っていいほどモラル(美意識でもいい)
というものを意識して発言していることが見えてくる。実はこのことが、この作品が
無効であることの本当の理由だ(エンタテインメントしては、もちろん有効であるこ
とを前提に)。
◆暗殺の本質と実像◆
さて、最後に黒鉄ヒロシである。ここまで考えてきて、世代も感性も全く違うとは
言え、黒鉄もまた殺人の意味について、自分なりに考察しているということ、その意
味で村崎の作業と意外にも類似点があることが判った。傑作である『幕末暗殺』とい
うマンガは、桜田門外の変をはじめとして、ごくごく小さな事件までを含めて、江戸
〜明治時代の暗殺事件を網羅的にマンガで記録した労作である。資料を集めるだけで
も凄いと思うが、綿密に事実を積み重ねるという手法で、事件の実像から暗殺者の人
物像までを浮かび上がらせており、なんとも素晴らしい。例えば、作業の副産物とし
て黒鉄は、竜馬暗殺の舞台・三条河原町「近江屋」の二階の間取りまで確かめている。
執念とも言える仕事ぶりだが、それには自身の興味の他に、マンガ家としての理由も
あるように思われる。手塚治虫以前のマンガから枝分かれし(つまり手塚の影響下で
はないルートで)、表現を今でも進化させている唯一の存在と言える黒鉄のマンガは、
ストーリー性よりもマンガの記号性や図像性の方を重視する。意表をついた絵や遊び
のある図の配置で、作品にオチを付けるというスタイルであるがゆえに、作品の絵画
的完成度は素描であれ細密描写であれ欠かせない。そして、もともと技術のある作家
が、経験で更に磨きをかけた絵は、好き嫌いを越えた説得力を持って迫ってくる。
この洒脱で簡潔で引き締まった絵柄で描かれる、幕末の暗殺者たちの群像は、ただ
美しいだけではなく、彼らの生き方の矛盾や醜悪さの側面も映し出して余りある。黒
鉄は決して安易に暗殺を、歴史風物として美しく描こうなどとはしていない。むしろ、
実証的に史実を積み重ね、「散る桜、溶ける雪、のはかなさ」の向こう側にある、彼
らの暗殺のより本質的な意味と実像に迫ろうとしている。
いきおい、紡がれるマンガのネーム(文字部分)も洗練されている。「自己の死の
イメージの克服を絶対条件とする点で、暗殺者と、他の世俗的な殺人事件とが/大い
に別れるところである 行為の代償に自己の生命の喪失を覚悟しなければならない暗
殺は/奇妙な殺人方法といえる」――ここで考察されているのは、やはり、暗殺とい
う特殊なジャンルに限定されているとはいえ、殺人の意味であり価値観である。
◆時代が求める暴力表現◆
さて、やっと材料が揃った所で、ざっと見えてきたことをまとめよう。三つの作品
を比較して、次のように言うことができるだろう。第一に、カネコは殺人の美意識を
あらかじめ放棄し、森園・村崎と黒鉄は、異なるスタンスではあるが、殺人の美意識
についてそれなりのこだわりを抱えている。第二に、カネコと黒鉄は、表現としての
洗練をそれぞれに追求しているが、森園・村崎は、おそらくこれを敢えて放棄し、B
級の泥臭さに留まろうとしている。第三に、虚構性については、カネコと森園・村崎
が共通に、嘘らしい嘘を作り上げようとしているが、黒鉄だけが背景に史実を置く姿
勢を取っており、この点はマンガ界を見渡しても異質である。
このように、殺人に対する美意識のベクトル、表現としての洗練への指向性、虚構
(作品)と現実の配置の仕方が、それぞれ異なることが判った。そしてこれらは、お
そらく作者の創作姿勢全体から必然的に選び取られているだろうことも、容易に想像
がつく。だから、彼らが互いに相手のスタイルを真似ることは、できそうもない。
総じて、暴力や殺人を描く時に、今まで以上に作家の創作姿勢全体が、非常に深く
関わっていると言えないだろうか。これに比べれば、かつてのマンガの暴力表現は、
まだまだ未分化で曖昧な姿勢が許されていた。現在のマンガの水準では、殺人に代表
される暴力表現に臨む時、作家が渾身の力でスタイルを掴み取ることが求められてい
る。そうしなければ、マンガ作品として説得力がない時代にある――これが筆者の取
りあえずの結論である。もっと平たく言えば、暴力表現の水準がある段階を越えて(お
そらく時代の必然として)一段上がった、と言い換えることも可能だ。ここから見れ
ば、例えば石井隆の暴力描写が、一見殺伐としているようでも本当はいかにロマンチ
ックだったか分かるというものだ。
それにしても世間では、“昏睡強盗”などのまことに卑劣な、美意識のカケラもな
い殺人が現実に横行し始めている。もちろん、美意識があれば殺人が許されるという
ことではないが、日本人は、何故人を殺すのか(そして、殺さないのか)という基本
的な枠組みも失い始めたのかも知れない。国家レベルの枠組みでそれが失われたのは
良いことだとしても、個人の中からも消滅しつつあるというのはなかなか薄ら寒い。
というか、少なくとも、誰も通り魔に殺されたくはないだろう。そう考えると、アホ
らしいほどナンセンスな我々の死に様を描く立場も、生死の美意識の再点検をする立
場も、どちらも作家の姿勢として納得できるものではある。マンガは、直観的にだが、
時代の空気のポイントを突くことがある。
☆筆者の阿部幸弘(あべゆ きひろ)氏はマンガ評論家、精神科医。『ガロ』『ユリ
イカ』『週刊読書人』『北海道新聞』など多くの雑誌、新聞に評論を執筆している。
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〔News:本の情報〕
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▼新聞書評インデックス(1月10日掲載分)
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○北海道新聞○
永井啓太著『新版 三遊亭円朝』(青蛙房)−評者・川添裕
中島梓著『タナトスの子供たち』(筑摩書房)−評者・香山リカ
林京子著『予定時間』(講談社)−評者・木崎さと子
大島幹雄著『シベリア漂流』(新潮社)−評者・山村基毅
夏石鈴子著『バイブを買いに』(リトル・モア)−評者−佐藤亜有子
○朝日新聞○
伊佐千尋著『邯鄲の夢』(文藝春秋)−評者・浅田次郎
マーティン・ブース著『阿片』(中央公論社)−評者・松山巌
梓澤要著『百枚の定家』(新人物往来社)−評者・木田元
L・D・クレシェンツォ著『「オデュッセイア」を楽しく読む』(白水社)−評者・
森まゆみ
小西甚一著『日本文藝の詩学』(みすず書房)−評者・河谷史夫
佐野眞一著『渋沢家三代』(文春新書)−評者・久間十義
○日本経済新聞○
マーチン・メイヤー著『ザ・バンカーズ』上下(時事通信社)−評者・池尾和人
クリス・パッテン著『東と西』(共同通信社)−評者・山本勲
樋口覚著『川舟考』(五柳書院)−評者・野口武彦
村上陽一郎著『安全学』(青土社)−評者・吉岡斉
柳美里著『ゴールドラッシュ』(新潮社)−評者・芹沢俊介
○毎日新聞○
村松秀著『生殖に何が起きているか』(NHK出版)−評者・森谷正規
石弘之著『地球環境報告U』(岩波新書)−評者・中村桂子
セップ・リンハルト著『拳の文化史』(角川叢書)−評者・藤森照信
クラフト・エヴィング商會著『クラウド・コレクター』(筑摩書房)−評者・杉浦日
向子
橘木俊詔著『日本の経済格差』(岩波新書)−評者・伊東光晴
パウル・カレル著『彼らは来た』(中央公論社)−評者・山室恭子
○読売新聞○
馬淵和雄著『鎌倉大仏の中世史』(新人物往来社)−評者・石井進
バーバラ・F・川上著『ハワイ日系移民の服飾史』(平凡社)−評者・城戸朱里
秋野豊著『偽りの同盟』(勁草書房)−評者・竹田いさみ
高橋順子著『博奕好き』(新潮社)−評者・高橋源一郎
一條裕子著『静かの海』(ぶんか社)−評者・野矢茂樹
リチャード・アイヴズ著『虎が消える日』−評者・大石芳野
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▼今週のベストセラー ◇旭川冨貴堂本店(1月3日〜9日)調べ◇
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1 乙武洋匡著『五体不満足』(講談社)1,600円
2 岡田信子著『たった一人の老い支度』(主婦の友社)1,500円
3 吉井和哉著『密色の手紙』(角川書店)1,000円
4 赤瀬川原平著『老人力』(筑摩書房)1,500円
5 リチャード・カールソンほか著『あくせくするな、ゆっくり生きよう』(主婦の友
社)1,500円
6 赤池学ほか著『世界でいちばん住みたい家』(TBSブリタニカ)2,000円
7 五木寛之著『夜明けを待ちながら』(東京書籍)1,500円
8 リチャード・カールソン著『小さいことにくよくよするな!』(発売:サンマーク)
1,500円
9 山崎えり子著『節約生活のススメ』(飛鳥新社)1,400円
10桐生操著『本当は恐ろしいグリム童話』(KKベストセラーズ)1,500円
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〔Colum:北海道の本と文化〕
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★ヤイユーカラの森 読書通信2(計良 光範) 13年間で何が変わったか?
成田得平、花崎皋平ほか編『新版 近代化の中のアイヌ差別の構造』明石書店(3300円)
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■差別を糾弾する闘いの記録■
これは1985年に刊行された同名書の、いわば増補版である。“いわば”というのは、
本文は資料や注を含めてそっくり旧版のままで、巻末に「解説―『近代化の中のアイ
ヌ差別の構造』で問われたもの」(百瀬響)と、「新版刊行にあたって」というまえ
がきが加えられた形になっているからである。書名といい細かい活字組といい決して
読みやすいとはいえない本書が、初版から13年たって再び、体裁を改めて刊行される
意味を考えてみたい。
「一九八一年七月、日本交通公社は、英字新聞“ジャパンタイムズ”に、訪日外国
人向け北海道観光勧誘の広告を掲載しました。/それは、北海道南部をまわる観光の
目玉として、白老で“ほんとうのアイヌ部落”を訪ね、“名高い毛深いアイヌの古い
風習と文化を見学する”ことをうたったものでした。/私たちは、この広告はアイヌ
に対するきわめつきの差別であるとして、日本交通公社を糾弾する闘いに取り組みま
した。/糾弾会は、一九八一年十一月二十三日に始まり、八二年五月十五日、一応の
決着をみるまで、計八回にわたりもたれました。/この本は、その八回の糾弾会の一
部始終をまとめたものです。」(本書「はじめに」より)
糾弾会に参加したなかから、9名が共同編者となって始められた編集作業は、1年
後に終了し、その半年後に初版が刊行された。編集作業中から懸案だった版元を明石
書店が引き受けてくれたのは、当時としては望外の幸運だった。その頃アイヌ関係の
出版は文化や学術的なものに限られ、“糾弾の記録”などを刊行する出版社は皆無と
いってよい状況だったのである。
■事件から現在までの様々な出来事■
以来1992年の3刷を経て現在まで、少ない数ながら読まれ続けてきた本書が果した
役割は小さくない。初版が主に観光・旅行業者によって読まれて以降、市民運動家や
社会学者、文化人類学にかかわる人々によって一定数が読まれてきたようだが、それ
はこの10年間の“アイヌ本ブーム”とでも呼べるようなアイヌ関連図書の増加にもか
かわらず、対アイヌ差別の本質に迫っていくような内容の本が、ほかには見当たらな
いことが最大の原因だろう。政治や社会の右傾化のなかで部落解放運動が昏迷の度合
いを強くしているなかでも、時代を切り開く“運動論”や“解放論”が生まれている
ことと比較すると、いわゆる“アイヌブーム”の渦中で体制に埋没しているかに思わ
れる“アイヌ本”の出版ラッシュは、一体なにを現わしているのだろうか?(例えば、
98年刊行の小森龍邦『蓮如論』は、“宗教論”の形をとりながら“人間解放論”“部
落解放論”を展開していると思われるように)。
この差別事件が起きたときから現在までを、『アイヌ史/概説』(河野本道著、北
海道出版企画センター、1996)所載のアイヌ史略年表で見ると、実に多くの“出来事”
があったことが分かる。北海道ウタリ協会が「アイヌ新法」制定要求を総会決議した
のが1982年。「法律案」を決議した84年からは、道や国に対して「法」制定を求めは
じめている。87年からは、協会として国連「差別防止および少数者保護小委員会」の
「国連先住民会議」に代表を送り、国の内外に“日本の先住民族・アイヌ”をアピー
ルしはじめた。93年の「国連世界先住民年」に後押しされたのと、中央政権の混乱に
よって、いわゆる「アイヌ文化法」が制定・施行されたのが97年である。この間、官
民ともにさまざまな事柄が並んでいるが、84年「アイヌ古式舞踊」が国の「重要無形
民俗文化財」の指定を受けたことは非常に重要であった。つまり「先住民族」として
の存在を主張すると同時に、「国民の伝統文化」保持者であることをアイヌ側は受け
入れたのである。「民族」と「民俗」を混入させることによって成り立っている「ア
イヌ文化法」は、そういった下地の上に作られたのだ。
■作り出された新たなアイヌ差別の構造■
したがって、私は本書中で語られ明らかにされていく「アイヌ差別の構造」は、現
在も同様に、いやむしろより強固に存在していると考える。若手の文化人類学者であ
る百瀬響は「解説」のなかで、“アイヌ差別”について次のように書いている。
「かつて『原始/未開の文化』を持つ『劣等民族』という表現があった。現在、先
住民に対し『自然との共生』が可能な『文化』を持つ『人々』という側面が広く流布
され、強調される傾向が見られる。(中略)しかし、現状のアイヌに関して言うなら
ば、その生活は『われわれ』と変ることはないのである。この『自然との共生』のイ
メージは、かつてアイヌが漁狩猟採集経済に依拠していたことに多分に基づいている。
この点だけを見れば、アイヌが『原始/未開の文化』を持つ他者であるという認識は、
現在のアイヌに対しても同様に付され続けるとも言える。このようなイメージによる
『周辺化』は、文化だけに限らない。例えば、個々の状況に応じず、『アイヌ』とい
う存在を経済的弱者、社会的弱者、あるいは歴史的被害者として、常に『〜されてき
た人々』、すなわち受け身の立場にある/あらざるを得ない者として一般化し、自ら
に対置することは、『アイヌ』の個々人を常に主体的でない『弱者』としての位置(イ
メージ)に囲い込む可能性をはらんでいる。『アイヌ差別』とはあからさまな言葉や
行為のみを意味するのではないのである」
また、こうも言う。「アイヌ差別に対する問題を、『アイヌ』対『和人』の対立、
すなわち『被差別者』対『差別者』(あるいは『被害者』対『加害者』)の関係とし
てしか捉えられない場合においては、『差別者である和人』側からの(アイヌ擁護の
ための)発言は、アイヌの被差別性を代弁するというポゼッション(憑依)型のステ
レオタイプに陥る傾向が見られる」
“文化”という装いごしにしかアイヌを認定しようとしない「アイヌ文化法」の制
定と施行は、新たな“アイヌ差別の構造”を作り出した。アイヌにとって、70年代は
意識や行動が芽吹きはじめた時代であり、80年代はさまざまな試行錯誤や実践によっ
て“現代のアイヌ像”が形作られようとした時代だった。そしてそれらを覆すように、
90年代、国や社会に“規定されたアイヌ像”によって、アイヌの存在が抹消されよう
としている。21世紀を目前にして、“アイヌ問題の最終的解決”がはかられたと言っ
ても過言ではないだろう。
本書中の糾弾会で問われた「『差別した』という認識を持たないまま、このような
広告を公表しうる日本社会の土壌、すなわち『社会構造』」(本書解説)がどのよう
に作られてきたのかを、あらためて読み取ることが必要である。
☆筆者の計良光範(けいら みつのり)氏は、アイヌ文化の再生を目的に自ら活動す
る「ヤイユーカラの森」を秋辺得平氏などとともに設立、現在、事務局長。著書には
『アイヌの世界』(明石書店)などがある。
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